五木寛之さんの「生きるヒント」をご存知でしょうか。
私はずっと以前に読んだことがあったのですが、最近また読んでみました。
再読してみて、当時と今の状況のつながりー湾岸戦争がテレビで報道されたり、地下鉄オウムサリン事件などーを連想してしまいました。
この本の中には、「人生に目的はある」、「ポジティブに生きよう」などといった、肯定的で、安易な励ましの言葉はありません。
「悲む」ことを認めて向き合うことだったり、「惑う」ことを肯定していたり、「知る」ことの負の側面を見つめています。
それでいて、語り口は柔らかく、苦しみへのあたたかいまなざしがあり、やさしい受けとめがあります。
だから、文章全体として「生きるヒント」になっています。
私自身、若い時にこの本を読んで、当時は、世の中の問題を解決するような人物になりたいと思ったのでした。
30年経って、「自分には希望がないのかもしれない」と考える私が、この「生きるヒント」を読んでみると、希望がなくても、まあ生きていてもいいかもしれないと思えるのでした。
この「生きるヒント」には、不可能を可能にする、問題の解決という視点以外の生き方があることに気付かされます。
そして、私は「自分には希望がないかもしれない」ところから、再度スタートしてみることにしました。
希望がなくても、生きてもいいのだ。
以前の私は、生きるからには、結果・成果を出さなければならない。
人生の目的を見つけなければならない。
生きる意味をわからないといけない。
親の期待通りに生きなければならない。
上司の期待に沿わなければならない。
他人を喜ばせなければなららない。
そこに「希望」を抱いていました。
それができない自分を責めていました。
それができない自分に疲れていました。
現在は、人並みの、あるいは世間に褒められるような希望はありません。
ですが、些細なことを自分にとっての「希望にして」「希望として」生きています。
世間的には、生温いのかもしれません。
意識が低いのかもしれません。
私は、「本当は人生に目的はない」ということを認めてみた上で、仮の目的や意味を作り出して、ユーモアで演出してみることにしました。
このあたりを理解するのに時間がかかりました。
希望や目的は最初からどこかにあって、隠されていたり、見つけにくかったりすると思いがちだけど、最初からあるわけではなさそうです。
これがあなたの希望です。とお金を入したら自販機のように出てくる訳でもなさそうだ(当たり前ですが)。
生老病死。
愛離別苦。
カードはすでに配られていて、変更するのも限りがあります。
各々に定められた時刻や時間があるようです。
自分なりの一歩でいいのですから、その一歩を認めてあげてください。
どこで暮らしていても、苦しさやどうしようもなさに囲まれているのが人生かもしれません。
そんな状況のなかで、生きているだけで奇跡的と言ってもいいのではないでしょうか。
自分の意思だけで生きているのではありません。
環境や物質の絶妙なバランスの中で、たまたま生きているにすぎないのかもしれないのです。
このたまたま「生きている」という感覚は、「生かされている」というふうに表現してもいいかもしれません。
そんなとき、自分を肯定してもいいのではないでしょうか。
意識的に、自分自身が頑張って「肯定しよう」と思わなくても、勝手に肯定させられているかのようです。
否定しているのは「自分」だけかもしれません。
あとは自分が肯定するだけ。
自分が自分を肯定するのを許すだけ。
悲しみを忘れるのではなく、つらさを打ち消すのではなく、忘れられないことを引き連れていくしかないのかもしれません。
陽キャがよくて、陰キャがダメな風潮があるようです。
わたしは、陰キャでもいいじゃないかと思います。
世の中、悲しみがそこここにあります。
戦争があり、貧困があり、病気があります。
みんな一緒、同調圧力が苦しい時もあります。
昔は、ネアカ、ネクラなんて言いました。
本当は、みんな陰キャなのかもしれません。
明るくなれないことで、自分には価値がないと思う必要はありません。
悲しみはつきないけれど、悲しみにも意味があることに、暗闇にも意味があることに、ふと気づき、悲しみと一緒に歩んでいけるときがくることを想って。
参考文献
五木寛之 2015「生きるヒント ー自分の人生を愛するための12章ー」 角川文庫
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