罪悪感の二つの側面

 

 

 

古澤平作という人が、かつて

 

「罪悪感の二種」という論文を書いたそうです。

 

 

 

戦前ドイツで、フロイトのもとで精神分析を勉強し、

 

日本に持ち帰り、普及させた人物です。

 

 

 

「罪悪感の二種」という論文は、

 

精神分析の資格を取るときに書いたもので、

 

フロイトのオイディプスコンプレックスに、

 

阿闍世(アジャセ)コンプレックスという概念を提示したものと

 

言われています。

 

 

 

 

 

フロイトは、

 

オイディプスコンプレックスという概念を

 

提唱しました。

 

 

 

オイディプス・コンプレックスとは、

 

母親が好きで独占したい子どもが父親に対して抱く罪悪感の渦、

 

と言いましょうか。

 

 

 

それに対して、

 

古澤平作は、母親によって許された阿闍世(アジャセ)の

 

安堵した気持ち、愛されていることに気づいた気持ちを

 

アジャセ・コンプレックスと呼びました。

 

 

 

このように、

 

罪悪感には、二つの側面があるという

 

理解の仕方ができます。

 

 

 

まず、将来に怒られる、叱られる、あるいは、罰せられる

 

という痛みを予想したり、そに対する恐怖感です。

 

 

 

これに対して、

 

許され、愛されていたという安堵感からくる、

 

恩返しをしたくなるような気持ちです。

 

 

 

 

 

オイディプス・コンプレックスは、

 

ギリシャ神話の出典です。

 

ここでさらに、新約聖書の「放蕩息子のたとえ」を

 

イメージするとさらにわかりやすいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

【放蕩息子のたとえ】

 

都会に出て、遊びや自分のために、

 

父親の財産をすべて使ってしまった放蕩息子。

 

どん底になって初めて、父の元に帰ろうと決意します。

 

実家に戻ると、

 

父親は叱るどころか、

 

家の外に迎えに来てくれています。

 

そして、帰ってきた息子を抱きしめ、迎え入れるのです。

 

さらに、戻ってきたことのお祝いまでしてくれました。

 

 

 

 

 

さて、

 

アジャセ・コンプレックスの阿闍世のお話は、

 

お釈迦様の伝承に出てきます。

 

ここでも、このイメージに近い

 

姥捨山の話を振り返ってみましょう。

 

 

 

 

 

【姥捨山のお話】

 

その村には、年取った高齢の親を山に捨てるしきたりがありました。

 

息子が背中に高齢になった母親を担いで山に登ります。

 

山頂に着く頃にはあたりも暗くなっていました。

 

息子は家まで帰れるだろうかと心配しましたが、

 

足元を見ると柴(しば=木の枝)が点々と続いているではありませんか。

 

登ってくるとき、母親が、息子が帰り道で迷わないように

 

枝を置いていてくれていたのでした。

 

息子は急いで母親がいる山頂に戻り、

 

一緒に山を下りました。

 

 

 

 

 

 

この二つのお話は、

 

ともに罪悪感のストーリーと言えるでしょう。

 

 

 

放蕩息子は、勘当される、怒られる、

 

そんな恐怖とともに、信じる気持ちもある。

 

 

 

 

また、

 

姥捨山の話の息子には、

 

ありがたさ・感謝と申し訳なさという

 

気持ちがある。

 

 

 

 

 

罪悪感は、とらえどころが難しいかもしれない。

 

それでも、複雑ながらも、

 

どこか素朴な気持ちでもあるように感じます。

 

 

 

 

 

次回以降も、罪悪感の側面をご紹介できれば

 

と思います。