怒りを手放すには、役割を見直してみる

父親、夫、兄、先輩、年上・・・

 

 

 

ある時までは役立っていたもの、

 

いつの間にか不要となったのに

 

ずっと握りしめているものはないでしょうか。

 

 

 

ネガティブな感情である「怒り」が沸く時は、

 

たいていこの「役割」というものに、

 

縛られています。

 

『自分は〇〇だから、相手は自分にこうするべきではないのか』

 

『自分は〇〇なのに、なんで自分は、こんなこともできないのだろうか』

 

『自分は〇〇だから、私は、こうするべきだ』

 

 

 

その役割について、

 

自分の知識や経験を総動員して、

 

「〇〇だから××」というような

 

論理をいつの間にか構成しているのです。

 

 

 

でもその論理は、

 

自分が育ってきた環境では、とても便利でした。

 

 

ところが、

 

新しい環境だったり、

 

出会ったばかりの人、あるいは成長過程にある人には、

 

通用しないものです。

 

 

 

誰しもよい〇〇になろうとしますが、

 

ある場所でよいものが、

 

別の場所でそのままよいとは限りません。

 

 

 

そんなとき、

 

沸き上げるのが怒りなのかもしれません。

 

 

 

怒りが出てきたら、

 

しばらく怒っても仕方ないけれど、

 

どんな「当たり前」、どんな「論理」が

 

自分の中で組み立てられているか、

 

落ち着いて、考えてみたいものです。

 

 

 

実は、相手は尊敬・尊重よりも、

 

友達のような親密さに価値を置き、

 

そのような関係を重要だと思っているの

 

かもしれません。

 

 

 

あるいは、

 

自分がそれまで持っていた役割を失ったことで、

 

自分は誰だったのか見失っているとしたら、

 

 

 

相手とうまくいっていた時は、

 

その役割に囚われずに、

 

もっと自由に友達のように

 

関わっていたことに気づくかもしれません。

 

 

 

相手との関係性が「うまくいく」ことよりも、

 

「その役割のあなた」だからというよりも、

 

あなた自身が好きだったのかもしれない。

 

 

 

だから、役割を手放して友のように関わることが、

 

自分を責めることの第一歩になります。

 

 

今までありがとう。よくやってきたね。

 

その役割の鎧を取り外せるといいなと思います。

 

 

 

これは自分自身に対してもそうで、

 

ちゃんと・しっかりしなければ、

 

自分を認められないと思っている場合にも

 

当てはまりそうですね。