つながりのなかで見えてくるもの

 

 

先日、葬式に参列しました。

 

 

葬式に参列して

 

その参列者の顔ぶれを見ることで、

 

故人のいろいろな側面を

 

思い浮かべました。

 

 

 

そのような中で、読者さんに

 

お伝えしたいことを書いてみます。

 

 

 

それは、

 

「自分の心理的な問題を、 

一家(家族、親戚など)における、 

自分の問題としてみてみよう」

 

ということです。

 

 

 

葬式に参列してみて、

 

自分が、家族や親戚のなかで、

 

どういう位置付けなのか、

 

ということを否応なく知らされました。

 

 

 

「自分だけ」というのは、

 

祖父母の代、親の代、そして自分という

 

一家の流れの中で、

 

自分の心理的な問題が存在しているということ

 

です。

  

 

 

第一子であったり、男であったり、

 

あるいは、 

相対的な関係(他のいとことの比較)だったり。

 

 

 

また、他に考えさせられたことは、

 

「親を親としてだけではなく、 

個人としてみる視点を持とう」

 

ということです。

 

 

 

 

 

自分の親は、 

なぜあの性格で、この発言・態度なのか。 

 

それは、 

親の両親と兄弟姉妹との関係の中で

 

形成されてきたものなのだからです。

 

  

自分を表現したり、認めてもらうための

 

言葉であり、行動です。 

それは、誰しも同じことです。

 

 

 

一家に流れる空気のようなものは、

 

特徴があり、

 

時代が変わっても

 

同じ側面を見せることがあります。

 

 

 

曽祖父母

祖父母

両親

自分

 

という一家の流れがあります。

  

その流れが

 

父方にもあるし、

 

母方にもあります。

 

二つの流れがあります。

 

  

一見当たり前ですが、

 

両親が両親になる前に 

出会いがあって、

 

一緒になった。

 

 

 

その二つの別々の流れが、偶然に合わさって、

 

一つの家族を作ったことで、

 

私が存在しているわけです。

 

 

 

親を親としてではなく、

 

一人の個人としてみたとき、

 

自分と同じような課題を 

持っているのかもしれない。

 

  

親を 

完成した人として 

みるのではなく、

 

課題を持った人としてみると 

より客観的になります。 

すると、 

囚われていたものが 

わかるかもしれません。