カウンセリングに対する思い

私はこう思っています。

 

カウンセリングを通して

生きがいを感じられて、

できるだけ楽(ラク)に

生きられるようにしたい。

 

自分はこれまで

周りがどう思うかを気にして、

人から怒られないように、

自分の失敗をもとにした

教訓によるマイルールを

たくさん作り、

それを守ることで、

人に迷惑をかけない真面目な

いい子・いい人であろうと

してきました。

 

 

 

自分が

充実しているか、

楽しいかよりも

役に立っているか

人の期待に応えられているかばかり気にして

人の顔色ばかり意識していた。

 

 

 

リーダーやまとめ役になることも

多かったが、おそらく大人の目を無意識に

とらえることができていたからのだろう。

 

 

 

それは本当のリーダーではないのかもしれない。

 

 

 

自分に常にブレーキをかけて

本当はこうしたいけど、ルールに照らして、

しなければいけないことを優先してきたし、

 

 

 

本当はこうしたいけど、

周りを見て、した方がいいことを優先してきた。

しだいに苦しくなって、

 

 

 

やる気を失い、周りに合わせられなくなっていった。

長時間勉強したり働いたりすることで

自分の無価値感を払拭したいと思っていた。

 

 

 

10代後半から30代前半、

自分は、自分に厳しいルールを課して

やりたいこともせず

楽しみもせず、

 

こんなに苦しいのに、

なぜうまくいかないことが多かった。

 

 

 

ずっとそれはなぜだろうと思っていた。

 

 

 

小さい頃から

人を治療したり直したりする医者に憧れていた。

そんな頭も良くなかったし、

血も苦手ではあったので、

口にもしなかった

医療ミスも怖かったし、

 

経理を選んだのも

企業を診る、治療する改善する

という観点からだと思う。

 

 

 

会計士や税理士は企業のホームドクターとも

言われていたから。

 

 

 

そんな中、本屋が心のオアシスだった。

本は、これだという文章に出会うまでは大変だが

悩みに近い内容を見つけると、

私の気持ちを否定せず、

反論せず、没頭できた。

 

 

 

悩みを打ち明けて人を困らせるが、

本は嫌な顔一つせずに受け入れてくれた。

精神世界、宗教、心理学の書棚はよく読んだ。

 

 

 

立ち読みだけでなく

買って読んだ。

そんな本との出会いで

一冊の本と出会う。

 

 

 

「愛と心理療法」という本だ。

その中に、

飛躍という話がありました。

 

 

 

その本には、

エリート校に進学しながらも自分に合わないと退学した少年。

DVの夫から離婚して、ブティックで働き始める、子供を持つ女性

猛烈サラリーマンを辞め、家具職人になる男性。

引きこもりから、牧師になる青年

今まで生きてきたものさしを転換して

自分らしく生きる人たちが書かれていた。

 

 

 

慣れ親しんだものさしを捨て、

新しい価値観で生きることは難しい。

転換する時も大変だし、

その後の継続も大変だろう。

 

 

 

元に戻ってしまう人だって多い。

それを支えるのは何か。

 

 

 

それは勇気であると本書では説いている。

 

 

 

カウンセリングは、心理療法は、

自分で自分を治すための勇気を引き出し、

それを見守ること、とあった。

 

 

 

河合隼雄は、

「何もしないことに全力を注ぐ」

とも言っている。

自分との対話はつらい。

 

 

 

変化の激しい社会で

人も変わらないきゃという圧力にさらされている

同時に

変わることで自分を見失う恐れも感じている

変わらなきゃという思いは、

変わりたいという希望に向かった思いなのか

今の自分がダメだから変わらなきゃという否定に根ざした思いなのか、

実際に悩みは人に相談しづらい。

 

 

 

身近な友達に知られたら、気軽に話せなくなるかもしれない。

親に相談したら、悲しませるかもしれない。

 

 

 

先生に相談したら、評価を下げられるかもしれない。

私も学校のカウンセラー、地域に臨床心理士、

遠出して合宿の内観療法、教会の霊操、

悩みから

距離を置く、離れる

断つ

捨てる・忘れる

縮小させる

 

悩みを

受け入れる

聞いてくれる

わかってくれる

寄り添ってくれる

この両輪が必要であること。

 

①マインドフルネス瞑想

②カウンセリング

相手がいて

関係性が問題になることもあるかもしれない。

 

医療機関などとの連携が必要になることもあるかもしれない。

でも、

個人を対象とするにあたっては、

この両輪が欠かせない。

 

 

 

カウンセラーにも気を使ってしまって

話せなかったこともある。

でもそんな心配はいらない。

 

 

 

なんでも話してほしい。

 

 

 

宗教や家族の力が強かった時代は

ある程度、「そういうものだ」という認識のもと

みんなそうしている、そうしてきた

というあきらめが当たり前だったかもしれない。

 

 

 

その縛りの中でどう人生を充実させるかが焦点だった。

宗教や家族、そして地域の縛りが

薄れてきている現代。

 

 

 

より身近なよりどころとしての

理解者、同伴者が求められている

と感じ、カウンセリングを開業しました。